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【シレトコってどんなトコ】第4回:しれとこ斜里ねぷた

【シレトコってどんなトコ?】では、知床の特徴や地域資源などの情報を地元目線でお伝えしています。第4回は「しれとこ斜里ねぷた」についてご紹介します。

軽やかな笛の音、体の芯に響く太鼓のリズム、ヤーヤドーの力強いかけ声・・・。にぎやかなお囃子とともに、鮮やかな扇ねぷたが夜の町を練り歩く「しれとこ斜里ねぷた」が、今年も7月21日(金)、22日(土)に斜里町市街地で開催されます。

ねぷたと言えば、東北・弘前の有名な夏祭り。なぜ知床斜里で・・・?と思う方も多いでしょう。今回は「しれとこ斜里ねぷた」が誕生したストーリーをご紹介します。

■斜里で北方警備にあたった津軽藩士

話は江戸時代までさかのぼります。今から200年以上前の1807年(文化4年)、江戸幕府は北方警備の必要性から、津軽藩に宗谷への出兵、斜里への転進を命じました。北海道の各地がロシアに襲撃される事件が相次ぎ、ロシアの脅威が高まっていた時期。津軽藩だけでなく、東北諸藩が宗谷や利尻などに出兵しました。

斜里では100人の津軽藩士が警備にあたりましたが、寒さ厳しい越冬期間中、栄養不足などが原因の浮腫病によって、72人が亡くなる悲劇が起こります。翌年、故郷の津軽に帰ることができた藩士はたった17名。慣れない斜里での越冬は過酷を極めたと想像されます。

この史実は長く明らかになりませんでしたが、1954年(昭和29年)、警備にあたった津軽藩士・斉藤勝利が密かに書き残した「松前詰合日記」が、歴史学者の高倉新一郎博士によって東京の古書店で発見され、その事実が明らかになりました。

■慰霊祭、ねぷた伝授へ

その後の1973年(昭和48年)、斜里町内の郷土史家が中心となり、津軽藩士殉難慰霊碑が建立されました。それから毎年町民の手で慰霊祭を行っていたことが縁となり、1983年(昭和58年)、斜里町と青森県弘前市は友好都市盟約を締結。それを記念して弘前からねぷたが伝授され、「しれとこ斜里ねぷた」が始まりました。弘前の協力を得て初年は数基からスタートした祭りも、現在は大小12基あまりのねぷたが出陣します。お囃子や踊りには斜里独自のスタイルもみられるようになりました。

津軽藩士殉難慰霊祭は今年も、7月21日(金)午前10時〜、町民公園内の慰霊碑前で行われます。津軽藩士の子孫の方も参列し、弘前から多くの方が訪れます。今年35回目の「しれとこ斜里ねぷた」。知床斜里の短い夏の風物詩となった祭りには、鎮魂の祈りも込められているのです。

第35回しれとこ斜里ねぷたについて

 

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